2006-06

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無策の果てに セガを追い詰めた戦犯たち 2

戦犯残り二人

何だかTVではワールドカップ大会で日本が負けただのと騒いでいますが、私はサッカーに全く興味がありませんのでマイペースに続けさせていただきます。

さて、セガ崩壊の戦犯について、残り二人の事を記します。

戦犯の二人目として、故・大川功氏を挙げます。
この人はすでに鬼籍に入られているので、あまり攻撃するのも気が引けるのですが、セガ崩壊を語る上で外せない人物でもあります。
1998年に入交氏の前任社長だった中山隼雄氏を会社から追い出して以来、セガの表舞台に顔を出す機会が増えた大川氏は、セガのコンシューマ事業を自分の思い通りに出来る体制を作るために、社長に据えた入交氏とともにドリームキャスト(DC)を立ち上げました。
大川氏はDCをゲーム機ではなくインターネット端末として売りたいという意向だったらしく、やたらとネット機能についてばかり熱弁を振るっていた記憶があります。
「いい歳した大人が夜遅くに仕事から帰ってきて遊ぶようなゲームはダサい。これからはネットゲームの時代だ!」
と、かなり頓珍漢な演説をしていました。
入交氏と同様、コアなゲーマーを追い出してライト層にDCを売り込もうとしており、ネットゲーム路線はライト層へのアピールのつもりだったらしいですが、現在のネットゲームはかなりヘビーなコアゲーマーの独壇場となっているのが皮肉としか言いようがありません。
DCを売り出している当時、何かの取材に対して
「僕は10年前からネットの時代が来ると予測していたよ」
と豪語しておりましたが、残念ながらゲーム市場の先を読む力は持ち合わせていなかった模様です。

生前の大川氏は「超」が付くほどの資産家で、大川氏の提供するカネが無かったら、数年間もの間、毎年のように数百億単位で赤字を垂れ流し続けていたセガは、とっくの昔に潰れていたでしょう。
その結果、DCはあえなく生産中止、セガはCSKグループから見捨てられる形でサミーの子会社となってしまったのですから、大川氏もずいぶんと無駄金をばら撒いてしまったものです。
もっとも、生前の大川氏のワンマンぶりは有名で、誰も大川氏の暴走にストップをかけられなかったのでしょう。2000年に入交氏が社長の座から退いてからは会長と社長を兼任し、暴走振りにますます磨きがかかってしまっていました。
ゲーム市場でDCがあまりにも受け入れられないのに業を煮やしたのか、
「セガは今後、ゲーム会社からインターネット会社へと大きく舵を切る」
などと言い出し、「セガはゲームから撤退?」と言われたりしました。
そもそもDCをネット端末として売ろうとしたのが間違いだったのです。普通にDCをゲーム機と位置づけて、地道にファンを増やす努力をしていれば、こんな短命に終わらずに済んだものを、やれディファクトスタンダードだマルチメディアだと余計な企てをするから潰れてしまったのです。
1998年に中山氏が退社し、ゲームに理解の無い大川氏と入交氏の二人がコンシューマ事業を仕切る体制になった時に、セガはプラットフォーマーとしては終わっていたのでしょうね。

さて、最後の一人として、秋元康氏を挙げます。
この人は作詞家だのプロデューサーだのと色々な肩書きであちこちに顔を突っ込みまくっていますが、本業は何なのでしょうか。
1998年にセガの社外取締役として主にDCの広告宣伝を担当し、例の「湯川専務」シリーズもこの人のアイディアだったそうです。故・大川会長(当時)から「セガを全部変えろ!」という指令を受けたらしく、それまでのセガファンを切り捨てるような広告を連発し、追い出した旧セガファンの代わりにライト層を取り込もうとしていました。
しかし、この路線は旧セガファンを怒らせただけで、ライト層を取り込むことは出来ませんでした。CMの湯川専務シリーズも騒がれたのは最初だけで、次第に冷たい視線で見られるのがオチでした。

正直言って、秋元氏の仕事は元々好きではありません。
某アイドル番組を手掛けていたり、某ガンダムをプロデュースしたりと様々な仕事を経てきていますが、どれも鼻に付くような内容ばかりでした。
もちろんゲームに関しても門外漢で、DC販促当時もゲームファンの気質など全く理解していない様子が見え隠れしていました。
「世間で話題になるのなら、今までのファンを不快にさせてもいい」
という主義の元、大川、入交、秋元の3トップがセガ市場を再起不能まで蝕んでしまったと言えるでしょう。

その後、DCがいよいよ危なくなった2000年にセガ取締役を退任、崩壊寸前のセガから自分だけさっさと逃げ出しています。
後にセガ内部から秋元氏に関する批判が出ると、
「仲間になれたと思っていたのに、最後まで転校生のままだった」
などと言っていましたが、ハナから腰掛けのアルバイト気分でやっていたくせに、何を言ってるんだか…と、記事を読んで不快になりました。
こんな「半ペテン師」みたいな人物にセガ市場を潰されたのかと思うと、腹立たしくてなりません。

この3人の他にも、セガ崩壊の「戦犯」は存在します。
それについては、また後日の更新とさせていただきます。
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無策の果てに セガを追い詰めた戦犯たち

A級戦犯たち

今は亡きセガハード及びセガについて長々と書いているわけですが、セガの愚行の裏にはそれを指揮した人間がいるわけで…そういった人物について個人的な意見を書こうと思います。

セガ没落のA級戦犯として、3人の人物が思い浮かびます。

入交昭一郎
大川功(故人)
秋元康

この3人が、セガハード滅亡の大きな要因となっている事は間違いないでしょう。
セガがハード事業から撤退した後、ゲーム業界もどんどん冷え込んでいきました。セガ関連の記事が一般マスコミに取り上げられた影響で、ゲーム業界そのもののイメージも著しく低下してしまいました。セガが撤退した事で、業界全体に活気が無くなってしまったのです。
つまり、セガ没落の要因を作った彼らは、ゲーム業界そのものを地盤沈下させてしまった戦犯でもあるのです。

まず一人目の、入交昭一郎氏についてですが、この人がセガ社長に就任したのは1998年2月頃だったと記憶しています。
ゲームクリエイターの中にはこの入交氏を褒めちぎる人が多くいて、紹介記事などでもやたらと「いい人」だと書かれていました。
社長就任当初はやけに自信満々で、「セガをもっと面白い会社にする」と、あちこちの雑誌に顔を出しては豪語していました。そして、ドリームキャストを派手にブチ上げて、PSに宣戦布告したわけですが…結果はご存知の通りになってしまいました。

私は入交氏と直接会った事はありませんし、実際の人柄など知る由もありませんが、個人的には「あまりお近づきになりたくない」タイプの人だなぁ…という印象を抱いています。
元々は自動車業界にいた人で、車に対する情熱は人並み以上なのでしょうが、ゲームに対する愛情や理解は欠片も持ち合わせていないように見受けられます。
東大卒のエリートで、本田技研ではプリンスと呼ばれていたそうですが、その経歴通り、本人もガチガチのエリート至上主義だったようです。

数年前、某ゲームクリエイターとの対談で入交氏は、
「これからの社会は、3歳くらいから英才教育を受けた人間でないと駄目だ」
などと言い放ち、対談相手のクリエイターが、
「自分の子供は今10歳なんですが…」
と言うと、それに対する返事は
「10歳じゃもう遅い。もっと小さいうちから教育しないと」
でした。

こんな事を言う人を「いい人」だなんてとても思えません。
まだ10歳の子供の全てを否定してしまうような事を、その親の前で平然と口にしてしまう、その神経が信じられません。
この記事を目にした時には正直言って、

「馬鹿か、こいつは?」

と思いました。
こんな奴が指揮を執ってるんじゃ、DCが売れないのも無理は無いよなぁ…と、セガの行く末を憂いたものです。

DC不振の責任を取って辞任する羽目になった時、雑誌に書かれていた記事の中に、
「何度も発売時期を遅らせて、湯水のようにカネを使うソフト開発陣を入交氏が全くコントロールできていなかった」
という事が書かれていましたが、入交氏を持ち上げていたクリエイター達は、本当に彼を「いい人」だと思ってたのか?単に入交氏におべっかを使って、余計にカネを引き出したかっただけなんじゃないのか?と、つい勘繰ってしまいます。
実際、入交氏がゲーム業界から出て行ってから、あれほどヨイショしていたクリエイター達は、誰も入交氏の事を語ろうとしなくなりました。
金の切れ目が縁の切れ目とは、よく言ったものです。

故・大川功氏の下で自由に動けなかったという記事も読みましたが、DC惨敗の原因はそれだけじゃないだろう、入交氏本人の資質にも、かなり問題があっただろうというのが個人的な意見です。
「セガを面白い会社にする」どころか、経営を滅茶苦茶にしただけで終わってしまった入交氏は、セガにとって「疫病神」そのものであったと言えるでしょう。
ゲームに対する理解が無い人間に、ゲーム機事業の指揮なんて最初から無理な話だったのです。
私も、この無能な社長が退任するまでDCを買いませんでした。

セガを辞職した後、自動車業界に帰っていったという噂を聞きましたが、間違ってもゲーム業界には帰って来ないで下さい。

残り2人については、また後日更新します。

セガの敗因 

SS&DC

前回までの記事で、ドリームキャスト(DC)生産中止に伴う、セガのハード撤退までの流れを書きましたが、1983年にSG-1000を発売して以来、十数年に渡って任天堂などとハード競争を繰り広げてきたセガが、なぜ撤退しなければならない状況に追い込まれてしまったのか?
原因を探ってみる事にします。

1980年代半ばから1990年代前半まで、市場規模は極めて小さくても、SG-1000~メガドライブまでの時代はセガの方向性も一貫し、少数ながらも熱心なセガファンに支えられていました。
やはり、セガのやり方に迷いが見え始めたのは、セガサターン(SS)の時代が始まりでしょう。

以前にも書いたと思いますが、1995年の「バーチャ2」が大ヒットした事により、セガはハード競争において、それまで足を踏み入れた事の無かった領域までやって来ました。もしかしたら、当時の次世代機の中でトップを獲れるかも知れない…といった意識が高まるあまり、進むべき道を見失って迷走状態に入ってしまったように思います。
1996年に18禁のX指定ソフトを撤廃したのがいい例で、メジャーになりたいがために健全さを求め、SSの優位性であったものを次々と自ら捨てていってしまったのは愚行と言う他ありません。

次に大きかった失策は、SSからDCへの移行に失敗した事でしょう。
1998年5月21日のDC発表時、DCの先代ハードに当たるSSの発売からまだ3年半しか経過しておらず、まだ次世代機は望まれていない時期でした。にも関わらず、セガはSSの業績不振を理由にして強引にDCへの移行を試み、あえなく失敗に終わってしまったのです。業績不振を理由にSSの販促を打ち切ったのに、テコ入れだったはずのDC事業がさらなる負債を招いてしまったのは皮肉です。

SS中期以降、セガは「客のニーズ」というものを全く読めなくなっていました。業界トップに立ちたいがために今までのディープなセガファンを切り捨てようとしていたのです。
過去をリセットしようという意図もあったのでしょうが、DCにはSSとの下位互換がありませんでした。ライト層向けに作るDC用ソフトさえあれば、マニアックなSSのソフトは必要ないと踏んだのでしょう。
とんでもない間違いです。
ライト層だけに受けるタイトルなど、そもそも存在しないからです。
PSで人気を博した「バイオハザード」や「グランツーリスモ」を見れば分かりますが、いずれもディープなファンが最初に飛び付き、その後ライト層にまで広がっていっているのです。
本当に優れたソフトでコアなファンまで満足させなければ、ライトなファンが関心を寄せる事はないのです。コア層で土台を固めなければ、その上の建築物たるライト層は手に入らないのです。
その後、PS2が旧PSとの下位互換を搭載し、DCのマイナスイメージはますます膨らんでいってしまいました。

第3の失策は、ネットワーク路線のゴリ押しをした事です。
DC最大の売りが、このネットワーク接続機能でした。モデムを標準で搭載し、オンラインゲームをメインにしてPSより優れている事をアピールする…といった作戦だったようですが、見事に空振りに終わりました。
これも以前書きましたが、DCが発売された1998年当時はインターネットそのものがまだ普及しておらず、接続料金や電話代などのシステム整備もほとんど進んでいない状況でした。
そもそもゲーム機のメインとなる客層は、小中学生の低年齢層です。
ゲームを立ち上げる度に接続料も電話代も発生してしまうオンラインゲームは、そんな子供達が気楽に楽しめる代物ではありません。仮に子供が欲しいとねだっても、親は承知するわけがないのです。
当時のセガは、そんなユーザー層の事情も、そして時代も読めなくなっていたのです。PSに勝つとか言う以前に、セガは自ら自滅していったも同然でした。

では、そんなセガの指揮を執っていたのは、どんな人達だったのでしょうか?

この続きは、また後日更新します。

ドリームキャスト発売 そして終焉へ

DC  top

発売直前になって内蔵するチップの生産トラブルなどが発覚し、出荷台数を大幅に削らざるを得なくなった関係で予約キャンペーンを中止するなどの不手際を経て、1998年11月27日に、セガ最後のハードとなるドリームキャスト(DC)は発売されました。

発売日には行列も出来るほどの売り上げがあったのですが、その後一向に生産状態が改善されず、店頭に品物が回ってこないという最悪の事態を招いてしまったDCは新ハードであったにも関わらず、1998~1999年の年末年始商戦で主役になり損ねてしまいます。
一番の売り時をフイにしてしまったDCは出足が極端に鈍り、魅力的なロンチタイトルを揃えられなかった事も加わって売り上げは低迷します。

そして、DC発売から半年も経たない1999年3月、ある発表会がゲーム業界を激震させました。
SCEIがPSの後継機である「次世代PS」を発表したのです。
壇上で公表されたスペックはDCを凌駕し、DVD再生機能も備えているという次世代PS(この時期はまだ正式名称は未発表)に話題を全て持っていかれてしまい、まだ新ハードであるはずのDCはすっかり「過去のマシン」扱いされるようになってしまうのです。

それでもセガは次世代PSが搭載を見送った「ネット接続機能」を売りにして、先行逃げ切りを図ろうとします。しかし、以前の記事にも書いた通り、当時はまだインターネットそのものが普及しておらず、ネット機能は売りになっていませんでした。
そして、低迷するDCに引きずられるかのごとく、セガ自体も迷走状態へと陥っていきました。

PS2を待ち、買い控えの態勢に入ったゲームファンにアピールするため、セガは1999年6月24日からDCの本体価格を29800円から19900円に値下げしました。PS2に先んじてDCを売りたいという、背水の陣となったセガのテコ入れ策だったのですが、この値下げはDCの利益率低下を招き、セガの経営を圧迫するという最悪の事態を招いてしまいました。
TVCMなどの販促も全く機能しておらず、「後藤善男」などの意味不明なCMを打って失笑を買うなど、セガ社内の低い志気が影響しているかのように見えました。

ハードの売り上げが低迷しているため、ソフトのラインナップも魅力的なタイトルがなかなか出揃わず、DC最大のビッグタイトルとして喧伝していた自社製ソフト「シェンムー」も発売延期を繰り返す有様でした。
その後、1999年末の商戦で、急遽発売延期となったPSの「ドラゴンクエストⅦ」と入れ替わるようにして「シェンムー」は発売されました。
なんでもこのシェンムーというソフトは、200万本の売り上げを目指していたそうですが、ハードが普及していないのにソフトだけが売れるわけも無く、売り上げは30万本程度に落ち着きました。
それでも他のタイトルよりは良い数字だったのですが、70億円とも言われた膨大な制作費をペイするには全く足りず、かなりの赤字になったものと思われます。
結局、PS2から逃げ切る最後のチャンスだった1999~2000年の年末年始商戦も不振に終わってしまい、DCはますます苦境となっていきました。

そして2000年3月4日、DCにとって最大の脅威である「プレイステーション2」(PS2)がついに発売となりました。
発売前から一般マスコミなどでも度々取り上げられていたPS2は発売当初から爆発的に売れ、一気に100万台近くの在庫を捌くというブームとなりました。
対するDCはというと、これといって対策も打てず、過熱するPS2フィーバーをただ眺めるしかないという体たらくでした。
DC発売当初は「打倒PS」「ディファクトスタンダード」などと鼻息も荒かったセガですが、この頃になるとすっかりトーンダウンしてしまい、
「ネットゲームで先行している分、棲み分けは可能だと思う」
と、何とも頼りないコメントに終始してしまう有様だったのです。

1年以上も先行していたアドバンスを全く活かせず、後からやって来たPS2に瞬く間に追い抜かれてしまったDCはますますトーンダウンしていきます。
2000年5月、当時のセガ社長だった入交昭一郎氏がDC不振の責任を取る形で社長を辞任、会長だった故・大川功氏が社長を兼任する形を取るという社内人事の混乱が報じられるなど、セガはもはやPS2と張り合うどころではなくなっている事が明らかになります。
それでもDCが2年目に入ると「CAPCOM VS SNK」などの優良タイトルもちらほらと登場し始めるのですが、DC本体の売り上げを上向かせるほどの影響力はありませんでした。
PS2とDCの、店頭での売り上げ対比は「100対1か、それ以上」とも言われていました。前世代でのPS対SSと全く同じか、それ以上に悪い状況となってしまっていたのです。

ミレニアムと騒がれた2000年のゲーム業界は、PS2の話題一色で終わってしまいました。そして21世紀を迎えた2001年、セガはついに決断しました。

2001年1月31日、セガはDCの生産を3月末で中止すると発表、それに伴ってハード事業からも撤退する事を明らかにしました。
1998年の決算から数年続けて数百億円もの赤字を垂れ流し続け、セガの経営状態は限界に来ていました。セガという会社を存続させるためにはやむを得ない決断でした。
ついに家庭用ゲーム機の市場で勝てないまま、セガはハード事業から去っていったのです。

次回以降は、セガの敗因について述べたいと思います。

常連さんはお断り?

専務

「打倒PS」「普及台数1000万台」という、無謀極まりないスローガンを掲げて発表されたドリームキャスト(DC)の販促で、セガは徹底的に今までのカラーを拭い去ろうとしました。

その代表的なものが「湯川専務シリーズ」のTVCMでしょう。
CMの劇中に本物のセガ社員が出演し、あえて自虐的なアピールをする事で、今までセガに振り向かなかったライト層の注目を集めようという目論見でした。
実際、このCMは話題にはなりました。
湯川専務はCMキャラクターとして高い知名度を持つようになりましたし、一連のCMは一般雑誌でも取り上げられました。そういった事を踏まえれば、当時のセガの目論みは成功したと言えるでしょう。

しかし、今までのセガを応援してきたゲームファンには、ある意味耐え難い内容のCMだったのではないでしょうか。
「プレステの方が面白いよな」とか「帰ってプレステやろう」などと、PSを意識するセリフがCM中に多く登場するのですが、見ている方からすれば、
「PSよりもサターン(SS)の方が好きで買っていた人が馬鹿みたいじゃないか…」
という印象を受けます。
今までのセガを否定するという事は、旧来のセガファンをも一緒に否定するという事です。実際、当時のセガ関係者が出したコメントを拾ってみると、セガ自身が古くからのセガファンを煙たがっている事が分かります。

当時、セガ社長を務めていた入交昭一郎氏などの「嫌セガファン」ぶりはかなり露骨なものでした。事あるごとに、
「セガはライトユーザーを取り込まなければならない」
「セガは変わらなくてはならない」
「今までのゲーム機やソフトは、全て気に入らない」
などと言い放ち、コアユーザーと呼ばれていた熱心なゲームファンを遠ざけようとしていました。

しかし、ゲーム市場というのはコアなユーザー層が土台となり、そこからライト層へと広がっていく構造になっているものです。
コアな層を嫌ってライト層ばかり追いかけるというのは、土台が出来てないのに建築物を作ろうとするようなものです。焦って「一見さん」を掻き集めようとするあまり、セガはそういう部分が全く見えなくなっていました。
こういったセガの変節ぶりに嫌気がさして、セガファンを辞める人もポツポツ現れ始めました。
私なんかもその一人です。
「拝金主義の任天堂と違い、ゲームの事を一番よく分かっているセガ」
だと思っていたのに、実はゲームの事を一番理解してないのはセガなんじゃないのか……?という疑問が、セガ派の人達の間で徐々に広まりつつあったのです。

そんな不穏な空気を抱えたまま、ついに発売日を迎えるのですが……。

続きは、また後日に書きます。

ドリームキャスト登場 

DC

128ビット機騒動から間もなく、1998年の1月23日に都内の新高輪プリンスホテルで行われたCSKグループの新春懇親会で、当時セガの会長を務めていた故・大川功氏が、
「マイクロソフトと提携し、新しく開発したゲーム機を99年頃に発売する」
と発言。サターン後継機の登場が近い事を示唆しました。

前回の記事で紹介したコメントから半年も経っておらず、舌の根も乾かぬうちに次世代機の発表…。当時、この記事を見て激しく憤ったものです。
この頃から、セガの「嘘つき」ぶりが顕著になっていきます。

ただ、1998年始めに出版されたセガ系専門誌を見返してみると、サターン(SS)に参入していたソフトメーカーからの年始の挨拶文に、
「もし、次のマシンがあるのなら…」
「次のハードでは挽回したい」
などと、すでに新型機の存在を知っているような文章が綴られています。おそらく、この時にはすでに、水面下で新型機の事が知らされていたのだと思います。

そして、1998年5月21日、セガはついに新型ゲーム機を発表しました。

新ハードの名称は「ドリームキャスト」(DC)
発売日は1998年11月20日(後に27日に変更)
価格は29800円(税別)

このDC発表会は都内のホテルで大々的に行われ、大勢のゲームクリエイターや芸能人などのゲストが招かれました。この派手な催しはTVや新聞などでも報じられたので、覚えている人も多いかと思います。
壇上では、入交昭一郎社長(当時)が、
「DCの販売目標台数は、11月の販売開始から翌3月までに100万台、発売開始から1年間で150~200万台を目指す」
「市場におけるトータルなシェアは、50%が目標」
などと強気なコメントを連発し、さかんに「打倒プレイステーション」をアピールしていました。

しかし、私は当時、この発表会のニュースをかなり冷ややかな目で見ていました。
正直言って、DCというハード、そしてDC発売に対するセガの姿勢が非常に気に入らなかったからです。
まず、DCというハードですが、PS路線に迎合しようとするあまり、それまでのセガらしさを徹底的に取り払ってしまっています。
本体カラーは、後期SSから引き継ぐかのようにホワイトが採用されました。当時、セガ内部では「色が黒いハードは一番になれない」と言われていたらしく、そういった意見を反映したものだと思われます。しかし、後に覇権を握る事となるプレイステーション2が、DCにあてつけるかのように黒色カラーで発売された事を考えると皮肉なものです。

この時期、セガはやたらと「ライトユーザー」というものを意識していました。
「SSが失敗したのはライト層の取り込みに失敗し、客層がディープに偏ってしまったからだ」
という分析のもと、「ライトユーザーが親しみやすいように」という狙いで、DCではコントローラーのボタンをSSの時よりも減らすという愚行に走ってしまいます。
この仕様は後々、DC自体のハンデとして重い影を落とす事になります。

SSとの下位互換は、さも当然のように切り捨てられました。
SSというハードは非常に複雑な設計で、互換性を取るのが困難な仕様だという事は知っていましたが、
「またセガは、旧ハードを簡単に見捨てるのか…!」
と、苦々しく思ったのもまた事実です。

DC最大の特徴としてアピールされていたのが、オンライン接続のためのモデムが標準搭載されている、という事でした。
ネット接続機能を標準にする事で、当時PSでは供給されていなかったオンラインゲームを充実させ、シェアを奪い返すという計画だったようですが、これはあまりにも無謀な計画でした。
当時はまだインターネットそのものが普及しておらず、電話回線による接続環境の整備もされていない状況でした。ネットゲームそのものに、大きな需要など無かったのです。
それに、プレイの度に発生する通信料金の問題もありました。低年齢層の子供が気軽に楽しむには、あまりにもハードルが高過ぎました。

「SSが成し得なかった、普及台数1000万台を達成する」
「ゲーム業界のディファクトスタンダードを目指す」
と、当時のセガは景気のいい目標を次々とブチ上げていましたが、肝心のセガファンの対応は非常に冷めたものでした。
その理由とは……。

長くなってしまうので、続きはまた後日とします。

セガサターンの凋落

ロゴ

1995~1996年の年末商戦を制し、ほんの一時だけ業界トップの座に躍り出たセガでしたが、年明け早々に大ショックに見舞われます。

それは、今まで任天堂陣営でしかリリースされていなかったスクウェアの「ファイナルファンタジー」最新作が、プレイステーションで発売されるというニュースでした。
この情報が出るや否や、話題の矛先は一気にPSへと集中します。たとえほんの一時でも「業界トップの栄光」を手にしてしまったセガは、何とか挽回しようとして、セガサターン(SS)本体の大幅な値下げに踏み切ります。

今思えば、セガの迷走はここら辺から始まっていたような気がします。
「バーチャファイター2」のダブルミリオンヒットが、結果的にはセガを追い詰めてしまったのかも知れません。

20000円という低価格になったセガサターンは、値下げと同時にハード本体のカラーも大幅に変えています。
「普及台数1000万台を目指すため、親しみやすいカラーに」という名目で、本体カラーはそれまでのグレーからホワイトになり、コントローラーのボタンも赤、黄、青などとカラフルな仕様になりました。

しかし、個人的には、このカラーチェンジは失敗だったと思っています。
通称「白サターン」と呼ばれているこのカラーはライトなファン、コアなゲーマー双方に受け入れられず、かえってSS本体の売り上げにブレーキを掛けるという結果になってしまいました。
好調にシェアを伸ばし続けるPSを追いかけようとするあまり、セガは次第に独自のカラーを失い、PSの後追いばかりするようになっていくのです。

この年の9月には、それまで販売を認めていた「18歳未満禁止・X指定」というレーベルを自ら廃止してしまいます。これはSS史上、最大の失態でした。
表現規制の厳しいPSでは移植できないようなゲームを取り込めるという、SS最大の利点を自ら放棄してしまったのです。一般層を意識するあまり、無理矢理PS路線に迎合しようとした結果の愚行でした。

それでも、SSにはまだ希望が残されていました。
当時、「FF」がPSに行ったのを受けて、もうひとつのRPGブランドである「ドラゴンクエスト」シリーズも任天堂市場から抜け出すという噂がさかんに飛び交っていました。
そして、その「ドラクエ」が、SSに来るという噂も流れていたのです。
現に水面下での交渉はあったらしく、セガの幹部も雑誌のインタビューで、
「近々、大きな発表があるので期待していて下さい」
と期待を持たせるコメントを残していました。
「FF」はPSに奪われても「ドラクエ」があれば挽回できる…と、当時のセガファンは希望を寄せていたものです。

迷走に終始してしまった1996年が明け、1997年の早々、またもゲーム業界に激震が走ります。
それは、「ドラゴンクエストシリーズ、PSに移行決定」というものでした。
このニュースが発表された瞬間、次世代機戦争と言われていたPSとSSの戦いは終結しました。この時期、PS本体の売り上げは最盛期を迎え、ショップに行ってもPSを買えないという状態がしばらく続いていました。
一方、SSは完全に売れ行きが止まってしまい、ほんの1年前が嘘のような低迷状態に陥ってしまいました。ハードが売れないからソフトが売れない→ソフトが売れないからラインナップが充実しない→ラインナップが乏しいからますますハードが売れない→…という「負のスパイラル」に嵌まり込んでしまったSSに、もう浮かび目はありませんでした。

悪い事は続くもので、この年の5月にはセガとバンダイの間で進められていた合併の話が破談となり、セガに対するマイナスイメージはますます大きくなってしまいます。
それでも、SSで発売されるソフトには質の高いものも多く存在していたのです。が、そういったソフトを上手くPRできないセガは不振から脱出できずにいました。

そして、1997年の秋頃から、ある噂が囁かれるようになりました。
セガが、SSを見捨てて新ハードに切り替える準備を進めている、というのです。
「セガ、128ビットの新型ゲーム機を99年に発売」
という記事が、日本経済新聞に掲載されたのがきっかけでした。
当時、まだSSを発売してから3年足らずしか経過しておらず、もうSSを見捨てるのか!?と、今までセガを応援してきたファンは騒然となりました。
この噂に対して当時のセガが出したコメントは、

「次世代機の開発を進めているのは事実だが、まだ次世代機を出す時期ではない。今はSSの拡販しか考えていないので安心して欲しい」

というものでした。

しかし、このコメントがとんでもない「大嘘」であったことを、セガファンは間もなく知る事となるのです……。

続きは、また後日更新します。

今は亡きセガハード

セガ

実を言うと、昔はセガ派でした。
ファミコンよりもセガマークⅢを愛用し、PCエンジンよりもマスターシステムを贔屓し、スーパーファミコンよりもメガドライブを応援し、プレイステーションよりもセガサターンを優先していました。

個人的にセガハードが一番楽しかった時期は、1985~1988年あたりの8ビット機時代でした。マークⅢ、マスターシステムのゲームには名作と呼べるタイトルが、数多く存在していました。
個人的に好きだったのは、マークⅢの「スペースハリアー」「ファンタジーゾーンⅠ&Ⅱ」「破邪の封印」「ファンタシースター」「オパオパ」「赤い光弾ジリオン」あたりでしょうか。
全機種用と呼ばれていたSG-1000用のソフトにも面白いタイトルがありました。
「ロレッタの肖像」「ブラックオニキス」などの思考型ゲームもありましたし、「ザクソン」「ピットフォールⅡ」「バンクパニック」などのアクションゲームにも良質なものが存在していました。
ファミコンと比べて発売されるソフトが極端に少なく、雑誌での扱いも小さかったので、当時、唯一セガ関連の記事を大々的に取り上げていた「Beep」を毎月愛読し、マークⅢ関連の記事に一喜一憂していたものでした。

1988年の10月に16ビット機のメガドライブへと世代交代した後、マークⅢのゲームは1~2本程度しか発売されず、ずいぶん寂しい幕引きとなったのを覚えています。
1989年に元号が昭和から平成になり、自分も中学校を卒業して義務教育が終わり、ほぼ同時期に「Beep」も休刊となってしまいました。
なので、1988~1989年というのは色々な意味で思い出深い「区切りの年」だったなぁ、という印象があります。

その後、セガは1994年に次世代機「セガサターン」(SS)を発売し、本格的に任天堂を追撃し始めました。
ロンチタイトルの「バーチャファイター」がヒットした事もあって、SSは好調な滑り出しでした。その後も順調に売り上げを重ねて行き、国内での出荷台数は100万台、200万台と増えて行きました。

セガが最も勢い付いていたのは、1995年の年末商戦でしょう。
この年の12月に発売した「バーチャファイター2」がダブルミリオンを越えるヒットとなり、1995年末~1996年始のSSの売り上げは、あのPSをも圧倒する勢いでした。この時、瞬間風速的にセガが業界のトップとなった時期でもあったのです。
旧SG-1000の頃からセガを見てきた私は、この時のSSの躍進ぶりに、
「時代も変わったよなぁ…」
と、しみじみ感じ入ったものでした。

この直後、そんな上昇ムードが一転、SSがあんな結末を迎えようとは想像もつきませんでした……。

その後のセガについては、また後日更新します。

次世代機について・その12 任天堂の本音

うぃー

よくゲーム関連の記事などで「ファミコン世代」と呼ばれる世代があります。
これは主に、昭和60~63年辺りのファミコンブームが絶頂期だった頃に小中学生だった年齢層の人達を指しています。現在20代後半~30代中頃くらいでしょうか。かくいう私もちょうど、この世代です。
最近の任天堂のコメントに、
「ファミコン世代の支持を取り戻す」
「ゲームから離れていったファミコン世代を呼び戻したい」
などと、かつて任天堂の市場を支えていた世代からの支持を得ようとする言葉が出てくるようになっています。

2004年に発売され、人気を博したゲームボーイアドバンス(GBA)のファミコンカラー仕様などは昔のファミコン世代を多分に意識した商品でした。この好評を受けて、昨年発売されたゲームボーイミクロ(GBM)のカラーバリエーションの中にもファミコンカラーが存在しています。
他にも、次世代機のWiiで供給される予定の、旧世代ゲーム機ソフトのダウンロードサービスなどが同様の狙いを持っています。

ただ、こういった動きとは裏腹に、任天堂は高年齢層のゲーマーを嫌っている節があります。
任天堂のハード(GC、GBA、N-DS)で発売されるソフトのラインナップを見れば一目瞭然ですが、ポケモン然り、マリオ然り、そのほとんどが小学生以下の低年齢層に向けて作られたタイトルです。
「ゲームは本来、子供が遊ぶべきもの」という任天堂の主張が表れています。
数年前、任天堂の先代社長が公の場で、
「昼間から秋葉原をうろついているような人種は相手にしていない」
と発言した事がありましたが、このコメントでも分かるように、任天堂が高年齢層のゲームファン、つまりマニア層を嫌っていることは間違いありません。

現在はSCEIやマイクロソフトなどとの競争が激しく、任天堂も背に腹は代えられないといった感じで商品展開を行っていますが、仮にWiiがこの先覇権を取り、その地位が磐石なものとなったら、その市場から真っ先に切り捨てられるのはファミコン世代でしょう。
現在のSCEIが変質してしまい、もはや信用するに足りない存在になってしまっているという事は以前に書きましたが、じゃあ代わりに任天堂が復権すればいいか、と問われると、これまた返事を渋ってしまいます。
また、あの閉塞感漂う市場に逆戻りしてしまうのか…という懸念や、いずれは自分達の世代は切り捨てられるであろうという予測を踏まえると、任天堂の復権にも賛同できかねる思いです。

「いい歳なんだから、ゲームなんか止めちまえよ」
と言われてしまえばそれまでなんですけど…ね。

長々と書いてきましたが、現在覇権争いをしているSCEI、マイクロソフト、任天堂と、それぞれに問題を多々抱えているという事です。
今後もゲーム業界の動向に注目したいと思います。

次回からは、市場から消えていったゲーム機の思い出でも書こうかと思っています。

それでは、今回はこの辺で……。

次世代機について・その11 任天堂VSソフトメーカー

任天堂 歴代マシン

1983年のファミリーコンピュータ発売以来、任天堂のゲーム機には数多くのソフトメーカーが参入し、膨大な数のソフトを世に送り出しました。
その20年以上にも渡る歴史の中で、任天堂とソフトメーカーとの軋轢が表面化する事が何度かあったのを覚えている人も多いと思います。

最初に任天堂とソフトメーカーとの衝突が大々的に報じられたのは、1989年にナムコがファミコン用ソフトの販売権を巡り、訴訟騒ぎを起こした事例だと記憶しています。

ファミコン発売当初、初期に参入したナムコ、コナミ、ジャレコ、バンダイ、タイトー、カプコンの6社には自社ラインでのROMカートリッジ製造権や年間タイトル数無制限などの「特権」が認められていました。
その後、ファミコン用ソフトはOEM生産が原則となり、契約期限となった1989年に任天堂から6社に対して、ある「条件」が提示されました。
それは、「それまで認められていた特権を取り払った、他のメーカーと同じ条件を受け入れなければ契約を更改しない」というものでした。
これにナムコが反発し、訴訟騒ぎにまで発展してしまったのです。
当時、契約期限ギリギリの1989年7月31日に、大急ぎで突っ込むようにして「スプラッターハウス」のファミコン版が発売されたのを覚えています。
最終的にはナムコが任天堂の主張を受け入れ、騒ぎは終息しましたが、任天堂の「コワモテ」というイメージはこの頃から顕著になっていきます。

その後、ハードがスーパーファミコン(SFC)に移行すると、任天堂のソフトメーカーに対する締め付けはますます厳しくなります。
そういった任天堂からの圧力はソフトメーカーから発売されるゲームの内容にも影響を及ぼし、一時期のSFC用ゲームはかなり粗製乱造な代物が数多く存在していました。当時のSFC市場に蔓延していた「閉塞感」は、任天堂の圧力とは無関係ではないでしょう。

しかし、1994年にプレイステーション、セガサターンといった次世代機が登場し、それまで独占状態だった任天堂の市場を脅かし始めます。
次世代機競争で一歩出遅れた任天堂は、NINTENDO-64発売までの繋ぎとして、スクウェアと共同で開発した「スーパーマリオRPG」を1996年3月に発売しました。
しかし、この「スーパーマリオRPG」が、任天堂とスクウェアとの間に亀裂を生むきっかけになってしまったのです。

ファミコン時代以来、蜜月関係のように見えていた任天堂とスクウェアは、このスーパーマリオRPG開発の際、方向性の違いから衝突するようになります。
故・横井軍平氏の「枯れた技術に花を咲かせる」という言葉に代表されるように、マシンスペックに頼らない、ゲームならではの楽しさを求める任天堂と、何よりも優先して美しいCGで画面を飾ろうとするスクウェアの方向性は、到底混ざり合えるものではなかったようです。
加えて、次世代機として発売を控えていたN64が、CD-ROMのような光ディスク媒体を採用しなかった事も影響し、水面下で発生した両社の亀裂は、スクウェアが「ファイナルファンタジーⅦ」をPSで発売するという形で表面化し、スクウェアが任天堂陣営を離脱するという事態になってしまいました。
その後、数年経ってスクウェアが任天堂市場へ再参入するまで、任天堂がかなりの長期間、スクウェアを「門前払い」していた事は有名です。

さらに時代は進み、ゲームキューブ(GC)時代になってもトラブルは無くなりませんでした。
人気シリーズを数多く手掛けるカプコンは、GC本体発売日の前日に当たる2001年9月13日、自社の人気シリーズである「バイオハザード」シリーズをGCだけの独占供給にする、と発表しました。
当時、すでに市場を席巻していたPS2だけにタイトルが集中する事を懸念したカプコンの判断によるものだと思われますが、思惑に反してGCの普及は伸び悩み、売り時を逃した感のある「バイオ」シリーズは次第に求心力を失って行きました。
そして2004年、当時のシリーズ最新作である「バイオハザード4」がPS2でも発売される事が発表され、独占供給という公約が反故にされてしまう形となりました。
この事例が影響し、カプコンはソフト販売に関して、現在も任天堂から規制をかけられ続けているという情報もあります。

ざっと大きな事例だけを掻い摘んで紹介しましたが、揉め事の原因がどっちにあるかはともかく、任天堂はトラブルを起こしやすい会社だと言えます。
数年前、任天堂の社長と経営陣が刷新されましたが、クセの強い任天堂の体質が、そう簡単に変わるとも思えません。ゲームに関しては自分達の右に出るものはいない、という自負がそうさせるのかも知れません。
こういったトラブルが、Wiiで起こらないという保証はありません。ほんの些細な揉め事が、致命的な痛手を呼び込むという可能性は常に付きまとっているのです。

長くなるので、続きはまた後日にします。

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